日記のコーナ(2011年5月 いつも ニコニコ生きて行きたいですネ〜)

-5月5日(木)-

健康:

今朝のランニング 58分54秒

本日07.57/07.00/12.37/12.10/04.49/05.39/05.19/03.21 58分56秒
前回07.25/06.52/12.13/12.10/04.43/05.35/05.27/03.09 57分38秒

身体が少し弱っているかも。
走り後半の方は小雨が降ってきた。
今朝は4時50分に一度起きてから、むにゃむにゃしていたら5時20分までうとうとしてしまって、6時から走ってきた。
祭日の6時代の荒川土手はかなり人が多かった。
ランナーも沢山。
しかし東京だけだろうと思う。
東京の朝は健康志向の人が多くお年寄りが散歩している率が高いように思う。

メモ
5月8日 ローザンヌバレエ国際コンクール NHK放映

トピックス:

80歳になる母と電話で話していて、私が住んでいるマンションは昔私が購入して持ち家に住んでいる事も忘れているようだった。
これにはさすがに驚いた。

東電/感情:

何度でも言うが...

東電も被災者である事。
原発は安全に運用していると言って来た事も本当ではあるが、政府および住民の代表である地方自治体が了承した安全基準内で安全であると言っているだけ。
もしその基準を超えた事象が発生すればどうなるかはわからない。
それも了承済みで、それを超えた場合には、責任は安全基準を了承した政府・地方自治体にも多いに責任がある。
住民の現在の感情の矛先は、その意味では東電ではなく、自分達の意見をまとめてより理性的な判断をした地方自治体にあるのは、間違いのない所である。

津波被災に遭って多くの尊い人命が亡くなってしまった。
その中には、安全な避難場所として想定された場所に避難して、津波に会った人たちも多かったと報告されている。
東電は原発は安全と言ってきた。避難場所も安全とされてきた。
安全と言ったきた事象が今回の津波では、崩れたのはどちらも全く同じ。
では、東電ばかりが責められているが、安全な避難場所を設定した地方自治体には、非はないのか。
東電ではまだ原発の直接の死者は出ていないが(自殺者は出ているが)、避難場所の件は多くの死者が出てしまった。
東電の比ではない。本来であればこちらの方が大問題である。
感情論だけで判断するならば、どちらも非 があるという論法になる。

この事がとても大切。
東電の場合は、直接的な天災を受けていない住民が、原発という2次災害に対して人間判断で強制避難させられた事。
原因の根本は天災であるが、天災とした場合、自分達の被った痛手を癒す事ができない。
大声を上げて、実態のある箇所に痛みを投げかけている
というのが、実態だと考えている。

感情主体であり、きちんとした判断ではない。
多くの人たちの感情で大きい声で言えば、それがあたかも正論であり人間が介在している事故原因の一員と思われる法人に
全ての責任を負わしてしまえ。
これは感情にまかせて他人を強制しようとしている事であり暴力そのものである。
真実を追究する杉下右京ならどう判断するでしょうか。

私は新聞や雑誌、報道、インターネットを通じて結構細かく情報を追ってきたつもりだが、
今回の原発問題に対して感情論でなく、正しい判断を示している内容を見た事がない。
新聞の社説でも、東電悪しから始まっている。

私に自分の子供がいたら、物事を正しく見るという事は常に教えたい。
行動はその次である。
物事を正しく判断した上で、感情をどのようにとろえるのかを常に教えたい。

原発の件は、安全基準を超えた所の災害ではあるが、その中にも補償基準はあると思われる。
明確に誰もが理性的に納得できる説明をした上で適切に補償をして欲しい。
少なくとも無限責任を東電は負っていないし、そんな事があってはならない。

私自身きちんとした事の是非を教えてもらいたい。
感情論でなくきちんとした判断根拠を示している内容があれば、是非私にメール等で教えて下さい。

原発:

先日今回の震災の特集がニュートンに乗っていたので読んでみた。

原発の燃料の元は、ウラン。
原発と核爆弾で使うウランは、その濃縮率が違う。
原発では反応を遅くする為、数%で核爆弾では瞬時に反応を起こす必要があるので、それは70%くらいの原料を使う。
よって、原発では、核爆発のような事は発生のしようがない。

反応とは、ウランに中性子を当てると、ウランが核分裂してエネルギーと、更に中性子が出て来る。
入力と出力の中性子の数を同程度にする事で、核分裂がゆっくり進行して、コントロールされたエネルギーが取り出される。
この中性子の数をコントロールするのが制御棒と水。
熱いほど どんどん熱くなるような事象が一般的だが、原発のエネルギーは、熱い事=エネルギーが出るという事が、次の反応の足しにはならない。

地震が発生して即座に制御棒が突っ込まれて核分裂はなくなったが、なぜ熱が出ているのか。
もちろん余熱もあるが、本質はそれではない。

核分裂をする事で、ウランは他の物質=放射性物質 に変化する。
放射性物質は今度は、電磁波=放射線を発して、更に他の安定した物質に変わろうとする(放射性崩壊)。
その時にエネルギーが出るのだそうだ。
この放射性崩壊は止める手段はこの世に存在しない。
この熱エネルギーは核分裂終了後に急速に収まって行くのだが(たとえば1ヶ月後には熱は1/10程度になる)、その後はゆっくり進行するので熱は長期にわたって発生し続ける。

現在原発から1ヶ月以上経過したので、もう以前のような熱が急激に上がる事もないがそれでも熱は存在し続ける。

原発が被災した当時は余熱も高かった為、冷やす事に全力が注がれたが、その理由は。
通常 ウラン燃料は一個数グラム単位の物。
それを一列にして棒状に並べた物を金属の筒に入れて、それを燃料棒としている。
最終的に出て来る放射性物質もその燃料棒内にとどまるようになっている。
また、燃料棒や、鉄で出来た原発の炉も、ざっくり言えば2000度くらいが溶融点。
熱暴走を許すと、燃料棒の破損、原発の炉の破損が誘発されて、放射性物質が炉の外に直接出て来る事が推測される。
その為、冷やす事に全力が注がれた。
一時的に一部燃料棒の周囲の水がなくて部分的には燃料棒の溶融があるのではないかと言われている。
燃料の溶融した物が炉の下等にたまっている可能性はある。
但しながら、炉の下には水があったので炉の溶融は避けられたようだ。

ちなみにウラン1gで一般家庭の1ヶ月分の電力が出せるとの事です。
また、原発一基で約100万kWを発生できますが、もしこれを現在の技術で太陽発電をしようとした場合、山の手線の内側全面に太陽光パネルを張ると、同程度の電力が起こせるそうです。

203高地:

昨日203高地(にひゃくさんこうち)というDVDを借りてきて観た。
難攻不落のロシアの要塞を日本軍が 精神主義・感情主義 で戦った内容。
ロシア兵5000人の犠牲者に対して、日本兵6万人の犠牲者。

攻めては全滅・攻めては全滅の繰り返し。
多くの兵員が命のないロボットのように使われてしまった事。
一発の銃弾も相手に届くことなく次々とぼろ切れのように撃たれて行く。

とても長い映画ですが見応え充分。
映画としてはおすすめですが、あまりにも痛ましいが、多くの人はこういう歴史的事実も知っておいて良いと思う。

健康2:

この10日間ほどほんの少しだけ 喉にゴミが詰まった感じで咳が少しだけ出る時がある。
体調的な話でなく、多分、外的なゴミ=黄砂 の影響かなぁって思う。

WEB:

今月に入って私のサイトで従来なかった検索キーワードでダントツ1位になったのは
「佐々木ルミ バレエ」

恐らく彼女のお教室の生徒さん関係で流行っているのかも...
って想像するけど

想い出/0%の確率:

いつの日の土曜日の午後だったでしょうか。
学校が、午前中だけで終わりになる。
午後に、家の近くの公園で、待ち合わせをして、一組の男の子と女の子が出会う。

それから、電車を乗り継いで40分程度で、大阪城にたどり着く。
ゆっくりと、二人は、手をつないで、歩き出す。
周りには、大人達ばかり。高校生の二人が、手をつないでいるのは、高校生カップル以外には、誰もいない。
そして、大阪城・天守閣の前のベンチに、座って、何時間も話し出す。
真っ赤な夕焼けが、全てを埋め尽くすまで。
夕焼けは、二人を、引き裂く為の合図でしかなかった。

なんのこだわりもなかったら、時間を止めて、永遠にこの時を過ごしたかった。
それで、二人とも、十分幸せだった。
春も夏も秋も、そして、誰もいなくなった冬も。
いつも、いつまでも、手をつないでいるだけで、お互い幸せだった。

男の子は、大学生になった。
女の子は、専門学校に通うようになった。
二人は、毎日、最寄りの駅に待ち合わせて、1駅分だけ、待ち合わせ時間を含めて、15分のデートを楽しんだ。
毎日の15分のデートは、もっと、二人を近づけた。

時に、二人して、大学にも、専門学校にも行かずに、そのまま、大阪駅で降りて、喫茶店のモーニングセットで
デートをしていた。モーニングセットが終われば、街中を歩き、彼女のアパートで一日を暮らしていた。
大阪、阪神デパートのナショナルショールームは、二人の、デートコースだった。
男の子にとって、彼女は、いつも愛おしい存在だった。
彼女も、そうだった。
二人が知り合って、10年以上。つきあって、6年以上が経過していた。
自然のなりいきで、二人は、十分に大人のカップルになっていた。

男の子の大学時代の4年間は、学生の時だった。
女の子は、専門学校を途中で辞めて、働きだした。女の子は、社会に先に踏み出した。
それから、半年で、男の子と女の子は、別れた。
10年以上の歳月の重みが、半年の時の変化の重みに耐えられなかった。
20才になる男の子は、とても、とても、悲しんだ。
生まれて、初めて、涙が枯れるまで、泣きました。
一ヶ月で7k痩せました。

別れて1年後のお正月に、男の子は、それまで、何年も二人で行っていた京都に、一人で行きました。
神様のいたずらでしょうか、駅でばったり、その女の子に出会いました。
女の子は、彼のアパートのある途中の駅でおりました...
男の子は、歩けば、10分の近くにいる女の子と、偶然に合う確率を 0% にする為に、東京に就職しました。
これで、神様のいたずらによる出会いもなくなりました。
永遠に、確率0%になりました。

東京で働いて、同じ職場に、とても、気の会う女性がいました。
男の子は、22才。彼女は、18才でした。
彼が生まれて、初めて、香水入れをプレゼントした女性です。
彼女が職場を辞めてから、他の女性から聞いた話によると、その男の子の香水入れを、いつも、いつも、ポケットに入れていたそうです。
その彼女、元々持っていた病気の為に、24才の若さで、なくなりました。
なぜか、その時から、男の子は、大人の男性になっていました。

原発/見識者:

ノーベル化学賞受賞者の人の意見がNHKで放映されていた。
が、浅い。
技術の側面でしか物事が考えられていない。
情けない。
ものすごく情けない。
泣きたいくらい情けない意見だと思う。

今回の問題を技術からしか見ていない典型的な意見。

-5月6日(金)-

健康:

今日 58分23秒

朝1時間走って、午前中のレッスンに行ってきた。
これは激身体に効きます!

でもかなりひさしぶりに グランやミニジャンプを入れたアレグロでは、身体がピョンピョンするぅ〜。
これはエエ!
明日から2日間はさすがに仕事なので走りもレッスンもなしだけど、来週からレッスンのある日も走ろうと思う。

バレエ/写真:

私は元々仕事に対してはワークフローをかなり決めてしまう性質がある。
発表会の写真を撮る以前に、撮る前から撮った後まで恐らく全ての作業手順が決まっている。
昔フイルムで舞台を撮っていた時は、どうなんでしょう。
私はフィルムで撮影したデータも全てデジタル化して一生懸命 色を補正していた。
多分フイルム時代に数百枚単位で色補正していたのは私くらいではないかと思っている。

今や完全にデジタル化されて優秀な現像ソフトもありフィルム時代にPhotoShopの機能を色々と使って補正していた事を
考えると、とても簡単でかつ高品質に補正できる良い時代になったと思う。
カメラマンもフィルムの頃はコンピュータの知識も必要なかったし、もっと別な技術が必要だったと思うが、
今の時代は、場合によっては到底カメラマンの感性とは別な知識・技術も必要となって来たのは確かだ。

それはあたかもWEBデザイナーが美術系センスだけでは全く太刀打ちできなくなってきている事を筆頭と考えればよくわかる。
まあ現代のカメラマンがその領域の違いはあるにしろ、撮りきりの写真だけで良しというのはかなり少なくなって来たのも事実。

撮りきり写真も結局複数の写真から写真のセレクトを行うという作業は少なくともある。
その為には、カラーマネージメントされたモニターやコンピュータ、またそれ専用のハードやソフトが必要となつてきて、そういう知識は最低限必要だ。

舞台カメラマンには撮りきりの写真は基本的には存在しない。
ストロボの元で撮影するポーズ写真でさえ撮りきりの写真は存在しない。
ポーズ写真では多くの場合写真は手持ちで撮影する。そうした場合、絶対的な水平は出ていない。
よって水平補正は多かれ少なかれ必要となる。

舞台写真は撮影時に適切な色味の基本をコントロールするホワイトバランスを厳密には設定はできない。
舞台写真に関しては確実に全ての写真においてホワイトバランスの設定をしなければならない。
また複数台のカメラを使って撮影した場合、それらを統一に的に処理するワークフローも必要だし、
横位置・縦位置の写真を撮影した場合、編集したりセレクトする際には当然、縦横位置はそのままで処理する必要もある。
一方最終的に印字する場合には、縦横位置は、どちらか一方に統一する方が便利だ。

一部インターネット写真注文を受けている所もあるが、それは一般的な閲覧ソフトである。
バレエ発表会にはバレエ発表会用のWEB閲覧のさせ方もある。
紙焼きの選択見本を作成する際もそれらを効率的に見せたりエコを考えて最小限の紙を利用して印刷する事も考える必要がある。
紙焼き選択見本と言えど、きちんと演目毎に、改ページするのはユーザ立場では必要ではあるが、
それさえも一般的な写真の印刷ソフトを使っている限りコントロールはできない。

写真をコントロールする以前に被写体を理解するという事は一番根本にあるが、それは自分のバレエレッスンを通じて勉強しているし、更に自分の目にも自負がある。

どれもこれも微妙な所ばかりである。
もしかしたら一つ一つの事は、他の優秀な方がいらっしゃるかも知れないが、
それを全て足す事ができているのが 現在の私のバレエ写真のうたい文句である。

自分自身の能力・感性含めて全て力を発揮できるのが バレエ写真だったと思う。
おかしな事だが、これは自分の生涯でもとても意外な事だっと 自覚している。
結局好きがこうじて積み重ねたらバレエ写真を職業としていた といのうが実態である。
まぁ...マネージメント力は要らないけどね...

-5月7日(土)-

チャート:

dojouさんの所をダウンロードして色警句表示させてみた。

まぁ こんなもんでしょう。
モニタープロファイルはCG243W。

追記
上記間違ったプロファイルを指定したかも。
週明け再度テストしてみます。

-5月8日(日)-

バレエ発表会:

昨日から某所の発表会の撮影に来ています。

バレエのロマンチックバレエの最右翼と言えばジゼル。
この演目・特に第2幕はこれまで長い間バレエを撮影していますが、発表会で撮影するのは極端に少ない、10代の女の子が踊る物の撮影は初めてか。
特にソリストや観客にとっては思い入れが強いとの思いがある。

ジゼルが難しい箇所は、白鳥と黒鳥の対比もさる事ながら、ジゼルの心の持たせ方がとても難しい。
他の4題バレエと比較して敢えて違う所があるとすると、技術的と心が一致して初めて生きて来るような舞だと感じる。

日本ではバレエ団の演目としてジゼル全幕はあまり行われないような思いも持っている。
それだけにソリストとしての実力(技術と心)があからさまに出てきやすもの、そのバレエ全体の成果如何に関わっているような気もする。

某所発表会では、そのジゼルの大役を高校3年生が演じる。
色々なゲスト達も私もジゼルに求めてしまうのにはつい力が入ってしまう。
それはバレエに携わる者にとってジゼルを見る場合一流のバレエ団・ソリストが行ってきた演目して見ておらず、
この演目に対しての目が肥えてしまっているのも一つの原因だと思う。

2幕のジゼルは、幽霊(失礼 精霊!)の仲間になったジゼルは、幽霊界の親分に人間であるアルブレヒトを
幽霊界(つもり死人)に連れてこられるよう命じられる。
幽霊になりたてのジゼルには、まだ人間の心が残っているが、身体は命令を効いてしまう。
人間の心を持ちながらも愛するアルブレヒトを幽霊界につれてこなければならない葛藤。

夜明けの鐘と共に幽霊軍団は幽霊界に戻る。
幽霊界の親分ミルタにかけられていた命令の効果も薄れて、それと共に人間の心の占める割合も多くなって、アルブレヒトに示す
情愛そして幕。

幽霊界の親分ミルタは、強さ、正確、悪役、子分達の指揮官としての役割。
ジゼルは、新米幽霊、はかなさ、心は半分人間、心の強さ、愛情としての役割。

とにかくジゼルは、技術だけでは踊れない。
心が必要なのです。

難題に挑戦今回の発表会のジゼル役は、とても一生懸命こなしていて好感が持てる。
これからが永いバレエの一歩だと思って、自分としてのジゼル、精霊としてのジゼルをせーっいぱい踊りきれば、成功だ。
さぁ 幕が数時間後に上がる。
既に拍手は聞こえている。

冷えた心:

20年前、ある所で直接的に心霊的な感性がある方に会った。

その人が私を評価するのに
「あなたの心はもう冷えてしまってここにない」
という事。

この論理的判断の好きな私にして、多分正解なんだと思ってしまいました。
その時の私には、学生時代に既に心を失ってしまった存在だと自分自身思っていたから。
既にたいした世の中だとは思っていなかった。

でもそういう生けるしかねばねのような心を前に進み出させた物は、バレエだったと思います。

-5月11日(水)-

健康:

昨日は疲れていたが、運動した方が良いだろうと思って午後レッスンに行ってきた。
先週の金曜日は身体ピョンピョン状態だったけど、さすがにダメだろうと思っていたら、やっぱり身体ピョンピョン状態。
20〜30代の男性ダンサーと比較してもそれほどジャンプで負けているとは思っていない。
どうも1時間走りを1時間5分で走っていた時は全然身体ができなかったのですが、
1時間以内で走るようにしてから、身体が出来上がって来たように思う。
今日は雨で走れず。明日は走るぞぅ〜。

CaptureOne:

私にとってはキャプチャーワンの使いこなしで一番大切なのは何か。
それは各ツールを使いやすいように一カ所に集めておく事です。
色々なツールがありますが、現像時に使うのはその一部です。

私のツールタブには、通常ないハートマークがあります。
これは、自分でカストマイズした追加のツールタブを入れた事を示しています。
ツールタブを追加したら、その中で自分の好きなツールを放り込んでおけます。

追加方法は上記の通りです。
ここでは、ツールタブの名前として「PLIE」としました。
またツールタブの順序は、ALT+ツールタブ でドラッグする事で順序変更が可能です。
日頃使わない、カメラキャプチャなどは一番右側に設置して隠しています。

震災/日本の倫理:

本当に嘆かわしい事ばかりです。
私自身こんな日本に暮らさざるを得ない事に涙してしまいます。

東電の件。
賠償額に上限を設定しないと報道されています。

その理由が報道されていません。
今回の東電/原発の件に対して、理性的判断を説明する一切の説明がなく、そんな事が許されるのでしょうか。

私にとっては日本が昔犯した最大の罪。戦争。
それは、感情と精神主義を元に、理性的判断をなくした結果の所行と、今回の東電/原発の対応が一緒に
思えて仕方ありません。
日本は、文化的には全く成長していない国だったとの思いが強いです。

理由説明が全くない中で、政府などは、住民感情を一番の理由に思っているでしょうが、
そんな事は絶対あってはならない事。

感情が理性的行動に一致するかどうかは別問題。
99.99%今の福島原発に関わる報道に対して、情けない意見・判断ばかり。
日本の優秀な頭脳は、全く日本の進むべき所に使われていない事が明確になっている証明でしかならない。

今回の福島原発の件で、理性的判断となる事実が全ての人に共有されていないのですよ。
それなのに言葉・感情の暴力で国の方向が決定されようとしている。

もし今回の決定が本当なら、
安全とされた避難地域で津波被災で無くなった事に関しては、
その避難地域設定をした行為に対して、損害賠償レベルでなく、過失致死レベルで問われるべき事になる
という事を誰も明言していません。

私は当面 この問題には触れません。
とんでもない事になると思いますよ。

-5月12日(木)-

震災/日本の倫理 続き:

この問題には触れないと言ったが、
今朝の日本経済新聞に米戦略国際問題研究所の所長が、
東電賠償「上限なし」は誤り
だという記事を投函している。

主旨は、日本は怒りの感情が収まっていない中で誤った行動を取っている。
その行動とは、世界的注視の集まっている原発政策を国際的観点で全く見ていない。
詳細は上記新聞を見て欲しい。

私が嘆かわしいと言ったことがそのまま実現となっている。
日本人が自ら明確なこうした問題にいち早く理性的な見解を言うのでなく、
とうとう外国人があまりにも日本人の問題解決プロセスがなっていない
という事を言っているのである。

私はかなり問題意識を持って震災を見守ってきて多くの震災の色々な事象に対して
自分なりの意見をHPで言ってきたが、
どうも知人等のHPを観た場合、ほとんど見解が述べられていない。
一般の人にはそれほど簡単な事象だったんだと思うばかりです。

被災した人の嘆きを知るのはTVを観ればいつもやっている事。
特に震災に会っていない人たちは、冷静になるだけの環境にいるのだから、
事の成り行きを個々が判断して行く必要があるのです。
同胞の日本人が2万人以上亡くなっているのですよ。
無関心でなく強い関心を持ち続ける事こそが、非被災者の我々に一番必要な事なのです。

なんかねぁ:

なんか政治の動向に関しては、私がこのHPに言っている問題点などが、
後から後から 追われて修正されて行くような雰囲気があります。
権力のある政治家が私のサイト見てないですかね〜。

とても大切な事:

今回の震災

もしかして、この地上世界の中で、日本の倫理 否 極論すれば
地球人としての倫理が試されているのではないでしょうか。

日本は発展途上国ではないのです。

私の真意を言えば、
この世界で核爆弾の唯一の被災国なのです。

その核の被災国が核エネルギーをもっとも安全に運用するのに難しい地球上の場所で
安全に運用できるか
それが試されているのですよ。

安全でないなら止めよ
そんな感情的な論法で進められるような事態ではないという意識を持っている人は、
少なくとも日本にはいるのでしょうか。

今回の福島原発の本質はそれが唯一なのです。

既に東電社長でさえ
日本が感情が先行して論理的判断ができない住民感情を考えた場合、
原発運用を民間のレベルで実施したのは、利益損失の観点で間違ったと思っているように
私には思えて仕方ありません。

また、民間でなく政府が運用したとしも、
選挙という論理的判断の伴わない住民感情主体によって決まる政治の元であれば、
原発運用など到底できる物ではありません。
もしできるとしても、他国で安全な運用が検証されてから実施する
というとても消極的な運用にならざるを得ません。

世界で唯一核爆弾に被災した日本だからこそ、
その核を安全に運用して行く義務がある事を放棄して良いのでしょうか。

日本の倫理感が世界で試されているのですよ。

但しながら、既にその倫理感なしとして判断が下されようとしています。

少なくとも私のサイトに訪れている人は
私の意見に同意できなくても良いが、
その場合には私の意見を論破できるだけの自分としての意見を持って欲しい。
それがこの震災について 考えるという事 なのだ。
それが日本人の個々がやるべき倫理なんだと 思いたい。

バレエ写真/仕事:

今回私の手元にはゲネプロも含めると約1万枚の写真がある。
その全ての写真に対してなんらかの処理を行っているが。
結構厳しい。

一枚一枚に対してセレクションを行い、必要な物に関しては一枚毎に適切な現像パラメータを設定して行く。
現像で適切な色を出して行くという作業は、人間の感性に依存する所です。
複数人で分担してできる作業ではありません。

私は色の特性について、工学的にも人間的に結構知っている方だと思う。
徹夜して行う事など、とんでもない。
長時間色の変更作業を行うと、自分の色に対しての基準がズレてくるのだ。
なので、かなり頻繁に休みをとって、屋外を眺めたりして、自分の色基準をリセットする必要がある。

今回の作業では、ちょっと?と思えるような舞台照明だったので、
その分作業工数は倍加されている。
例えば、女性ソロのバリエーションの箇所で背景の基本の照明色が変わってしまうのだ。
あれはバレエ舞台として意味のある事なのだろうか?
それが頻繁に行われている。
私にはわからない。

写真としては背景の色が変われば当然、被写体の色にも影響するし、
ピンスポットも外れたりしているので、大幅な調整が必要となってくる。
舞台で照明を受け持つ人たちは、舞台でもっとも重要な箇所なので、
私らカメラマンにはわからない論法の元で作業をしているに違いないと思うが。

そう言えば某発表会のアナウンサーとして、数百k離れた所から雇われていた人がいた。
そのアナウンサーがアナウンスすると、発表会が、世界有数のバレエ団が行う公演のような雰囲気を作り出す
そんな方もいる事にびっくりした事もあります。
子供達が踊る発表会が、言葉だけで、一気に一流バレエ団の公演になってしまう。
過去に、あ〜、アナウンスにはこういう重要性もあるんだと、唯一理解できた時もありました。

-5月13日(金)-

バレエ/仕事記録:

22列目。ホール後方から電源あり。ビデオはカメラ前。2カメ。
荷物は駅前24H郵便局。

健康/身体を感じられる事:

バレエに通じていると
バレエそのものが身体の超効率的な使い方だとわかって来ます。

私が実家に帰省した時には、母親をねっころがして簡単な身体のストレッチなどをやらせます。
そうすると結構翌日、体調が良くなっていたりするのです。

-5月17日(火)-

仕事:

特にバレエの舞台写真の中には、全体風景を撮影した場合に、観客の頭が写っていたりするものがあります。

物理的な写真の大きさから言えば、縦横比率は、2:3の写真印刷サイズが多い。
3:4もある事はある。

舞台のプロセニアムアート(舞台を額縁に区切ったデザイン手法)は、2:3になってはいない。
よって、横に広がった集団を撮影する場合には、天地がどうしても入らざるを得ない場合が多い。

ここからは私の持論です。
だからと言って、舞台写真として観客の頭が写っていて良しとするのは、私の考えにはあり得ません。
舞台は演技者の為だけの空間です。
観客の空間ではあり得ません。
もちろん、舞台カメラマンが撮影するのは、舞台空間に繰り広げられる出演者を撮影するものです。
そこに、観客という非日常の象徴が、舞台写真に写っていては、基本的にはダメだと思います。

ほとんどの多く全景は、写真比率から考えて観客の頭が写っていて仕方なしとしているのが、
大半と言いましょうか、そうでないのは、恐らくこの世界で私一人なのでしょうか と思ってしまいます。

もちろん物理的な最終の印刷サイズの比率を変える事もできます。
しかしそれでは、ポータビリティがなくなってしまいます。

まず基本は、記録としての映像的からした場合、主催者のその事を伝えてきちんと観客席の前方に、
観客を座らせないような示唆があって当然しかるべきです。
それがあっても、なおかつ座席の前に人を座らせる場合もありますが、それはそれです。
主催者の何を重要とするかの価値に依存します。

しかしカメラマンとしてやるべき事は、ただ単に写真を撮る事だけではあり得ません。
それを行う為の関連する全てをマネージメントする事が必要なのです。
そういう意識を持たないと、一流の舞台カメラマンにはなり得ません。
写真を単に撮影すれば良し。
と思えば良いような舞台カメラマンがいたら少なくとも私の会社では失格です。

舞台写真それもバレエの発表会では、必要とする資質は、
感性的な所と、事務処理分野でのテキパキさ
だと思います。
通常のカメラマン的資質から言えば、感性が重きですが、バレエ発表会で仕事を成す為には、
効率性を含めて人間としての作業性能の優秀さ
も同時に求められるのです。

そこの所が、カメラマンとして必要な一般的資質からすれば、そのテキパキ資質はややもすれば軽視されがちです。
10人の5歳の子供が2列で75秒の同じ振り付けで踊った。
どう撮るか。
算数的な所になります。
その演目で同じフリになる所に、何カウントが使用されているか。
それで、全ての人数を撮りきるには、一人ずつ撮って良いのか、それとも数人ずつまとめて撮らないとダメなのか。
はたまた、撮影者は一人なのか、複数人なのか。
そうなると、写真の感性的要素より、算数的・事務的に処理できる能力もかなり重視せざるを得なくなります。

発表会カメラマンに求められる要素を兼ね備えている人は、極少数だと思っています。
少なくともこんな事を考えている人は...

ジゼル/カメラ:

今持っているメインのカメラは地上最強のカメラで撮影しているが、
ひょんな事から6年前に撮影したジゼルを再現像する事になった。
撮影データを見たら、ISO1250でシャッタースピード 1/80S で撮影していた。
まあ、プロの公演なのでそれでもジャンプでも止めて写す事ができたようだ。
しかしたかが6年でカメラの性能は全く別物になったと思う。
今なら完璧に撮影できると思うのだが。

トピックス:

今週は、先週撮影した写真の選択見本の納品と、以前に撮影した本写真の納品、それとその他モロモロ。
イベントだらけになってしまった。超〜マーフィーの法則にハマっている。
身動きできないが、それでもいつもは行かない木曜日のレッスンにも行った方が良いらしいので
もう何が なんやら...
今日は、早めに寝て明日は早朝ランニング後、最低12時間仕事だ!

大竹しのぶさん。
あの人って 私は女優としては超プロだと思うが、心が見えないよね。
???

-5月18日(水)-

原発:

一番最初の時から最終的には原発炉内の調査が必要と言うことがわかっていたのだから、炉内調査の手段を検討していなかったのは、一番大きなミスだと思っている。
炉内調査用のミニロボットの制作をはじめから検討していたら、今頃は出来ていたかも知れない。
そういうミニロボットであれば、まだ明確になっていない放射性物質で汚染されている色々な箇所の調査にも活用できると思っている。

格納容器自体は15cmの鉄で出来ているので、私は、容器の壁については損傷していない推測をしているが、それ以外の箇所から内部の水が漏れていると推測する。

バレエ/写真:

そう言えば、バレエ写真の選択見本。
これもこだわりのある所ですが...

他社さんで見た選択見本は、写真が時系列に並んでいないのですよ。
バレエの舞台写真は、複数大のカメラで撮らざるを得ないのですが、そのカメラ毎の選択見本になっている。
見るのに全く閲覧者の事を考えていない。
踊りは、時間軸に沿って踊っているのですよ。

それをカメラマンの都合で時系列を無視して、カメラマン側の都合で並び替えして良いなどは、基本的にはあってはならない事。
また多くの場合、写真の大きさの都合でそれを崩す場合もあるという理屈を言うカメラマンもいそうですが、
それも見せるという力量のなさを言っているとしか私には思えてしかたありません。
ある程度の並び順の変更は必要かも知れませんが、基本は時間軸に沿っていなければならないと思っています。

よくありがちなのは、一つのパフォーマンスの写真を別な選択見本雑誌で見せる事。
この一つの技術的な課題を言える人は、いないと思います。
簡単に言えば、インデックスに対して論理的な改ページができないばかりにこんなバカげた事になっているのです。
まぁ、見せられたらそれで良い なんて考えている人が大半ですが...
それは情けないと思わざるを得ません。

そういう事は、カメラマンのセンスではないと思っています。
が、ユーザの立場に立った考えができる人でもあり得ません。
そこが、バレエ発表会カメラマンの資質なのです。

シャッターを押す事だけが、重要ではないのです。

-5月19日(木)-

バレエ/仕事:

今回はやたらめったら色々な事が重なる中で、プログラムの改造まで実施するハメになってしまった。
今まで、ぎりぎり耐えられていたのだが、D7000は画素数の短辺長辺比率が厳密には2:3をかなり外れている。
計算上、短辺を真とした場合、長辺が32ドット多い。
簡単な話、この画像を2:3比率の写真印画紙に印刷した場合、短辺を真とした場合、少し長辺が切れて印字されるし、
長辺を真とした場合、不要な空白枠が出てしまう。

私はこの仕事をやり始めた時からかなり厳密に2:3比率画像を同一比率の印画紙に焼いて本写真としてきた。
ちなみに 長辺/短辺比率は

5DMark2 1.500 誤差0
D3S 1.504 誤差8ドット
D7000 1.509 誤差32ドット

D7000では、全く使えない。
誤差おおすぎである。

NIKONにこの仕様はどのような設計思想によるものか問い合わせ中である。
まぁ、こんな所は変更のしようがない所だと推測するが、アマちゃんカメラと言われても仕方ないだろう。

とりあえず、私のワークフローの中では、現像後に出てきたTIFFファイルを一括して、時刻順で並び替えて、論理的なファイル番号を付けなおしてPSDに保存する自動化の箇所があるので、その部分で、全ての画像を厳密に(誤差1ドット以内)1.5比率にするプログラムをさきほど作成して対応した。

一つの画像データは、紙焼きの印刷見本にもなるし、WEBデータにもなるので、誤差の大小は結構効いてくるし、本写真も問題が多い。
これで今晩から印刷が始められる。
A4用紙で400枚オーパか、これは記録だなぁ。
なんか今週は、落とし穴が多い。

-5月20日(金)-

バレエ/仕事:

本日の仕事は、印刷を時々チェックしたり、Web選択見本のバッチ処理を見ていたり、という人間が介在する所が少ない。
2020年に試験放送開始というスーパハイビジョン。
現在のハイビジョンの画質は200万画素程度に対して、それはなんと3300万画素との事。

いや〜、その頃になってしまうとシャッタータイミングが重視される動態を撮っていたカメラマンはいったいどうなっちゃうのでしょうか?
まあ、その頃になったら年金生活が始まるからいいか...

しかし動画が幾ら高度を極めても、少なくとも私が生きている時代には静止画の価値はそれほど変わらないだろうし、
当初スーパハイビジョンが一般化されるのは、更に10年以上が必要と思われるので、あまり関係ないかも知れない。

スーパハイビジョン時代になったとしても、当初は、その動画の中から静止画を抜き出すオペレータが必要になると思うが、
私の仕事の面はそういう所が主体になるのかも知れない。

震災:

トーシロの私が思うのは、プレートの歪みによる地震は、定期的に起こる事象をなんとかした方が良いと思う。
元を立たねば永遠に規模のわからない地震の恐怖は消えないし、何度も人の生命が無駄に亡くなって良いものでもない。

基本的には、プレート型地震はプレート境界を強く結びつけている固着部分があり、そこに歪みエネルギーがたまるらしい。
それが耐えきれなくなった時に、大きな地震となる。
SFライクに考えれば、エネルギーがたまるのは人智を超えた所にあるが、定期的に人為的に歪みエネルギーが小さい時に、
歪みエネルギーを解放して小さい地震を起こさせてやれば良いと思う。
そういう技術開発が必要だと思う。
小規模な計画的地震を起こすのである。

少なくとも、計画的に起こすので、事前に避難もできて良いと思うのだが。

仕事/アスペクト:

'-----------------------------------------------
' 2011.5.19 データサイズを3対2比率に整形する
' D7000対応で組み込むがこれを一般化して常用する
'-----------------------------------------------
Sub RatioCnv(myWidth, myHeight)
Dim tmpW As Double
Dim tmpH As Double

tmpW = myWidth
tmpH = myHeight

If myWidth > myHeight Then
If myWidth - 3 * myHeight / 2 > 1 Then
tmpW = CInt(3 * myHeight / 2)
tmpH = myHeight
End If
If myWidth - 3 * myHeight / 2 < -1 Then
tmpW = myWidth
tmpH = CInt(2 * myWidth / 3)
End If
Else
If myWidth - 2 * myHeight / 3 > 1 Then
tmpW = CInt(2 * myHeight / 3)
tmpH = myHeight
End If
If myWidth - 2 * myHeight / 3 < -1 Then
tmpW = myWidth
tmpH = CInt(3 * myWidth / 2)
End If
End If

appRef.activedocument.ResizeCanvas tmpW, tmpH, 5

End Sub

3対2比率以外で出来た画像を強制的に、3対2比率に実施する。
縦画像であろうと横画像であろうとこれで実施できる。

あ〜。
よく考えれば以前CaptureONEで画像回転を行うとこの比率がよくズレていたのだが、その時もこの変換をかませれば
良かったのだあ〜。
PhotoShopのカンバスサイズというコマンドを使っているので、画像劣化はありません。

写真:

ちょっと情けないかも。

顕著な例で、WEBデザインをする時、写真画像を掲載するとしよう。
そうした場合、デザイナは、後で来るであろう掲載写真の画像比率を想定して枠具組をそれに想定して
デザインを行う。

それに対して、実際に納品された写真の画像比率が、1ドットレベルでも狂えば、
それはWEBデザインを狂わすか、あるいは、写真の本来の品質を保てない事にも通じる。
写真データを提供する人たちは、最終的な媒体での使われ方に意識を使っても良いのではないかと思う。

例え契約上、そんなに細かい事が規定されていなくても。
それが、プロとしての品性だと考えている。

画像処理検定:

少なくとも
写真関連に関して教えをする人は、画像処理検定エキスパート クラスはとれる実力があっても良いと思う。
もちろん写真の世界は、感性の世界。
そういう感性の力量を問う物ではなく、画像を扱う人たちの最低限の知識を問う物であるので、
そいうレベルをクリアしておくのは、自分の生業として良いと思うのだが。

-5月21日(土)-

写真/アスペクト:

NIKONのカメラは、カメラ毎に異なった画像アスペクトになっている。
業界標準である2:3に一致しているのはD3Xのみである。
同一系列のプロフェッショナルタイプのD3Sでさえ2:3には一致していない。

この問題の影響を昨日掲載したが、詳細に考えた場合、カメラマンの我々には非常にゆゆしき問題を含んでいる。
我々はどういう局面であろうと、作成した画像データに対して著作権の保持と引き替えに責任を持たなければならない。
ましてや、クライアントに出したデータに対して カメラの責任してはならないのだが...

顕著な例で、恐らくこういう場合がまかり通っているだろう事例
よくWEBサイトでショッピングカート形式の商品購入に対して商品画像を見て購入するという形式。
こういうシステムの場合、カメラマンから納められたデータは定型的な処置なので、多くの場合そのままのデータを
システムで使っている場合も多い。
システム自体は、デザイナーが関与する事もなく、画像データは定型的な枠組みの中にはめ込まれて表示される。
もしその枠組みのアスペクトとデータのアスペクトが一致しない場合、HTMLあるいはJavaScriptの自動的な機構で、
あらかじめ設定された枠組みに強制的に、画像のアスペクト、大きさが変更されて表示される。

もちろんデータとしての画像を表示する方法もあるが、そういった場合、画像の大きさ等によってデザインが崩れる場合が
あるので、大量の画像を定型的に扱う場合には、そういう手法を採らない場合が多い。

強制的に、画像のアスペクト大きさが変更されて表示されると、本来の画像品質が崩れる。
もちろん元の画像と表示枠の差が少ないほど、その劣化は少ないわけだが。

例えば商品撮影のプロカメラマンが、D3XとD3Sで商品を撮影して、そういったWEBショッピングサイトで使う画像データを納めたとしよう。上記の事を知らないと、D3Sで撮影した画像は、劣化した画像として誰も知らずにユーザの目に触れてしまう事になる。
少なくとも、そのプロカメラマンは、クライアントに画像データを納品する場合には、画像のアスペクト比は統一を取って、クライアントに提出すべきだとわかる。例え、その画像に対してレタッチャーによる手が加えられるとしても。

実際問題、私の仕事のサイトでWEB閲覧システムがあるが、微妙に画質が悪くなっているようにも思える。
また、大量画像のインデックスなどで、1px単位で設計しているインデックスがあるが

画像のアスペクトを無視して、印刷を行うと、上記例のように、十時の隙間の左部分が、若干大きい。
実は設計上1pxの隙間を想定しているが、画像アスペクト問題で空きが少し出ている。
等倍で表示しているので顕著だが、インデックスとしての役割として実害はないが、これがもし本写真としたら怖い。
今回から、全ての画像のアスペクトを1pxの誤差範囲で一致させるようにした。

あのカメラマンからくるデータは、なぜかショッピングサイトで見ると、見栄えが悪いのよね〜
なんてカメラマン生命がじょじょに失われてるなんて事は、ないとは言えない。

キャノンのカメラは私が調べた限り、2:3に厳密に一致しているので、キャノンユーザがこの問題にあたる事はない。
ニコンユーザは、クライアントに出すデータに対して多くの場合画像品性を保つ上でアスペクトの整形作業をしなければならないと思う。

D7000に至っては、2:3標準に対して、長辺が32ドットも多い。
撮りきり画像をその場でクライアントに出せない場合がある。
仕事のワークフローさえ変えてしまうし、場合によっては、ニコンでは仕事ができないという事にもなりかねない。
ニコンから回答が返って来ていないが、再度週明けに、ニコンユーザ代表としてNPSに電話で問い合わせてみようと思う。

追記1
アスペクト整形に対して、PhotoShopのプラクインタイプの物も作成して、公開予定。(Windows/Mac共用)
本件、私はこの問題はクリアしているので、どうでも良い事だが。
私がカメラメーカである場合には、ユーザにアスペクトが自社のカメラ間で統一されていないと指摘された場合、
ユーザに論理的な説明が言えないと思う。

-5月22日(日)-

東京シティバレエ団/ラフィネ:

ラフィネというのは、「洗練された」という意味です。

本日本バレエ団のラフィネ公演を観てきた。
色々な演目に挑戦的にバレエをとらえているのは、好ましいと以前から思っていました。

演目の一つに、一応クラシックで、部分ですがメジャーなドンキホーテがありました。
日記に書く事をためらいましたが、やはり辛口コメントという事で、敢えて書かさせて頂いた方が良いと判断しましたので、
書きます。

私は、この演目を踊ったキトリ役の志賀育恵さんは、とても素晴らしいダンサー、というか現日本を代表するNo1ダンサーだと
思っていました。

ところが、本日のキトリは、その期待には全く及びませんでした。
キトリに求められるのは、元気良さと、その中に小粋に男性を誘惑するような女性 そんな感じを持っています。
また技術的にも高度なパが沢山ちりばめられています。

本来の志賀育恵さんであれば、テクニカル要素満載の黒鳥と同じく、一番彼女らしい見せ場があるもので、
彼女自身やり易い演目だったとの思いが強いです。
当然観客も、それを期待していて観ていたわけですが、見事に裏切られました。

これは非常に危ない事です。
もしこういう踊りを、次回の全幕公演ジゼルで演じたとしたら、ダンサー生命が亡くなってしまうと危惧してしまいます。

私は、この演目途中に自分がキトリ役が間違っていたのかと思って、プログラムを取り出して再確認するほど、
彼女らしさのかけらもありませんでした。

ダンサーは舞台に立ったら、どんな事があろうとそこが死に場所です。
それ以外を舞台に持ち込んだら、踊る前から少なくとも、バレエ団のトップダンサーではあり得ません。

きつい事を言うようですが、同じ踊りを6年ぶりとなる次回ジゼル全幕公演でするなら、自身から辞退して欲しい。
多くのあなたのファンは、6年前のジゼルからの進化を期待しているのですから。
1幕の華やかな感情表現・踊りの洗練さは、そのままに、2幕の感情の表現の高まりの舞を観たいのです。

追記
私は彼女本来のダンス能力は非常に高くかっています。
身体能力ありすぎ!って言うくらいです。
だからこそ、ファンの一人として、筆舌尽くしがたく残念に思えて仕方ありません。

-5月25日(水)-

仕事:

バレエの発表会を撮影するという仕事。
これは、毎日できるものではないと思います。
あまりにも個人の撮影のエネルギーを使ってしまう。

まだまだバレエを知らない年少の子供達が出てきた場合には、全員のバレエシーンを必ず撮影する!
という思いの中で撮影してます。
職業病と言っても良いと思いますが、バレエパフォーマンスを流れの中ではみれません。
私には、一つ一つのパの連続、それはとりもなおさずシャッタータイミングの一瞬なのだが、その連続に分解してしまうです。
また群舞にしろ、その領域をカットするのかも考えてしまう。
そのパがあるべき姿が私にあるので、どうしてもバレエパフォーマンスをみる時に、厳しくならざるを得ません。

日曜日:

薄曇りの日の午後だったので、お花さんも少し元気がなかったかも

日曜日の公園では、おじいさんが孫の自転車乗りの練習にお手伝い。
後で見るととよく転んでいました。

親子連れの多い公園

こちらは撮りきりの画像

但し実際のイメージはこちら。
色相、彩度、明度を全て変えています。
人間の記憶色の再現を考えるとこうなる。
どちらの赤もカラーマネージメント環境で見なければ、全く色が変わってみえているので要注意。

こんな画像さえ。
後でモニターで見た場合、イメージと全く違うので、かなり色をいじくった。

裁判員制度:(2年前の日記より引用)

ある事件で、今後の裁判員制度を想定しての裁判が行われたとの事。
それは、加害者がいかに人間的に悪い事をしたかを、人の感情としていかに残忍であったかを、浮き彫りにする内容であったとの事。
それを見立ていた専門家の一つの意見として、本来、冷静に審判すべき内容が、人のその時の一時的な感情に支配され易くなるのでは
ないかと危惧していた。

感情はコントロールすべきもの。

少なくともこの日本での報道内容を見ると、感情こそが、人の本質 としている事が伺える。
ある意味、人の感情を全面に出して、それで審判されるのも、その国民性・その国民の文化レベルを表していると判断して、
その元での審判も その程度で良い と言えなくもないと 少し思う。

しかしながら、理想・あるべき姿は、そうではない。
感情を抑えるのでなく、人の感情面も踏まえた上で冷徹な分析の上で、法に準じた裁きをするのが、裁判だと信じる。
裁判員制度によっては、多くの一般市民はコントロールされていない感情の元で判断をする結果も多く出ると思われるが、
それは、感情面の代表として考えて、その感情面を分析しコントロールされた意見を言うことが専門の陪審員に求められるのではないかと考える。

野球とバレエ:

私の知人でリトルリーグの野球審判員の資格を持っている人がいます。私自身は、野球は自分では全くやりませんし、そういう経験は皆無です。
ですが、TVで見るのはとても好きです。
私の目でみえているのは、やはり一般の人たちとはどうも違うようだ。審判員の友は野球チームの指導も行っているが、彼とたまに話す事がある。
そうした場合、いつもいわれるのは、「PLIEさん、あなたは野球やった事あるのですか」否定的な言葉でなく、野球をやっている人たちより、野球の本質レベルで理解している事に対して
驚いているとの事です。どうも私には、動態の運動系に関して、あるべき姿を見極められる資質があると思えてしまいます。
但し、その基本は、バレエが求める究極の身体の効率的な運動を基本として、
全ての運動系が、それから外れた場合には、NGであるという基準があるからなのだと考えています。その意味から、江川の投球を解説した所もないし、上原の投球とバレエの関連を言っている事もあり得ません。
もう少し、バレエを習っている人たちは、見るという事を意識した方が良いと思っています。

日本の倫理:

今週になってニュースで、以前事故となった
自衛隊の船舶と、民間4人が乗る船舶の裁判での判定が出た。

結果は、もちろん自衛隊船舶は無罪。

この事故が起こった当時の、TBS朝の報道では、専門家を呼んでこの話を聞いたのだが、
TBSの思惑つまりは、自衛隊船舶の非を唱えるでろう事を推定した専門家が、
民間船舶の非を示唆する内容を示した。

結果翌日からのその番組では、他の専門家を入れての放送となった。
こんなバカげた話は、ないですよね。

全く感情論先行を良しとする、受けだけを狙った報道。
いみじくも、公共の電波を使って、私的受けだけを狙った報道をしている事の
証となつてしまった。

もちろん、上記裁判の結果を、その番組で報道される事はありませんでした。
全く論外の報道です。

怖い事です。
人の感情をあおって、それで自己の利益を計っているのですから。
それに増長するのは多くの日本人ですけど。

-5月26日(木)-

バレエ/眠れる森の美女:

The Sleeping beauty.

物語のあらすじは...
プロローグ
ある国に姫となる赤ん坊が生まれた。
赤ん坊を祝う式が催され、森の色々な精霊が呼ばれる。
しかし、呼ばれなかった悪の妖精:カラボスが、嫌がらせでその式にやってきて、
将来その子供は、針にさされて死ぬであろうと告げる。
王様は、国から尖った物を全廃するように従者に指示する。
ただし、リラの精は、死ぬのでなく、永遠の眠りにつくだけとだと伝える。
よく発表会では、この中のバ・ド・シスで、色々な妖精のバリエーション部分のみが演じられる事が多い。

1幕
そして20歳の姫の誕生日の時、各国から王子が、王女にプロポーズにやってくる。
そして老婆に変装しカラボスが、バラの花束に針を忍びませた物を姫に渡して、姫はその針にさされて、
永い眠りにつく。また宮殿も一緒に呪いがかかって眠りにつく。
発表会では、冒頭の花輪のワルツが踊られる事がある。
ただ花輪を持って踊ると顔がかくれがちになるので、写真を撮る方からすれば花輪は好きじゃないのです。
姫が4人の王子からバラをもらう所は、デリエール・アチチュードで立ち続けなればならず、苦労の多い所。
ただ発表会で、4人の男性をゲストとして集めるのは、結構大きなお教室にならなければいけない。
4人の男性をお教室では、女性が演じる場合も多い。
念の為に言っておくと、
「眠りの森の美女」では 花のワルツ
「胡桃割り人形」では 花のワルツ
よく言葉が似ているが、音楽そのものは全く違う。

2幕
そして100年が経つ。
デジレ王子一行がこの森に狩りにやってくる。
リラの精が登場して、姫にキッスをして100年の眠りから覚まして欲しいと懇願され、
その通り実行する。
まあ、眠りとは言いつつ、実際には、時間が静止していたわけで、題名は、SF流に名付ければ
「時の彼方に忘れられた神殿」
となる事だろう。
実際問題100年もほったらかしにされていたら、姫は実際には埃まみれになっていてキッスなんかできないだろうし、
悪なのか善なのかわからない初めて会った妖精の言葉を信じるなんて、安全管理に問題認識なさすぎ〜。(爆)
なんて事は、おとぎの世界だから言わない いわない。

3幕
眠りから覚めたオーロラ姫とデジレ王子の結婚式。
宝石の踊り/猫/ブルーバード/赤ずきん それと最後のグラン・パ・ドゥ。
発表会では、3幕のみを取り出して演じられる場合が、もっとも多いし、ソロバリエーションも、
この中から取り出される場合も多い。
ただ公演では、ソロバージョンだが、発表会レベルでは、群舞になっている場合がほとんどか。
記憶に残ってる踊りとしては、猫の踊り「長靴をはいた猫と白猫(Puss in Boots and the White Cat)」。
ゲスト男性ダンサーは、かつてニューヨークでキャツにも出演していた方で、発表会では、そのまんまのメイクで
出てきて、とても素晴らしい踊りをしてくれた。
しかし、赤ずきんの踊りは、結婚式のお祝いで、おおかみが出て来て、意味わから〜ん。

この演目では、主役王子は2幕と3幕しか出てこない。
主役の姫は、2幕の最後に眠りから覚める時には少し出て来るが、基本的には1幕と3幕にか出てこない。
唯一リラの精だけは、全幕を通して出て来るので、踊りの主役はリラの精。
全体的には、群舞が多めで、ソロの箇所は非常に多く発表会の小品として踊られるもの。
特に オーロラ姫のソロバリエーション部分は 写真的には色々なパがちりばられているので好き。

ソロあるいは小グループの踊りに関しては、数限りなく撮影している。
群舞に関しては、発表会ではほとんどと言ってもよいほど作り替えられているので、
その箇所は事前に見ておく事が必要。

1幕の王子達のプロポーズのシーン 私が昔撮ったものがこちらのお教室のトップページを飾っている。

そういえば、一番始めにバレエを習ったお教室の最初の発表会が、やっぱり この眠りだったなぁ...

-5月27日(金)-

健康:

今日8.04/6.59/11.51/11.55/4.23/5.31/5.23/2.31 TOTAL 56.41 最速タイム更新
昨日7.52/6.57/12.24/12.01/4.50/5.44/5.25/3.15 TOTAL 58.30

昨日はとてもしんどくて しんどくて ぎりぎり58分台キープ
本日はある程度快調に走行。

現在走っているのは多分8kmくらい。
サブフォー(フルマラソンで4時間切り)だと、時速10km つまり 1.6K/10分 くらい。
8kmだと 50分くらいの走りとなるので、それと比較すると大分遅いが、まあ今はこんなもんだろうと思う。
まだまだ走りの為の筋力ができていない。

恐らく今年中に調子の良い時に50分を切れればと思う。
何事も続けるのが大切。

昔フルマラソンを走っていた時には、単一の10km走は、44分で走った時もあったが、とてもしんどかった思いがある。
但し普通のスピードあれば、10km 20kmは全くストレスなく、50分/10km くらいで走っていたが。

先は長い。

今朝は、朝のランニング後、午前中のレッスンにも行ってきた。
ちょ〜 疲れた。
身体がべりべり 状態(?)

本日は夕方から 市村正親/大竹しのぶ主演の スウィーニー・トッド というミュージカルを観劇しに行ってきます。

そうそう
昨年暮れからの冬の季節。今回は、一度も風邪にかからなかった。
実際には、超〜寒の大阪の実家に泊まった時に一時的に鼻風邪にはなったが、喉が痛くなるような風邪にはかからなかった。
これは、恐らく、真冬の5時代気温0度付近を走っていた為だろうと思う。
呼吸器系統が、これで耐性が出たものと考えている。
私自身耳鼻科的に、鼻の粘膜が弱いのが体質であるが、そういう事も走りで改善できるもんなんだと、思った。
まぁ、2月の朝5時台に小雨の中を走っていた時もあったようだ。
自分でも少しエライ と思うぞ >  自分へ。

スイーニー・トッド/ミュージカル:

市村正親・大竹しのぶ主演のミュージカルを見て来ました。
1幕1時間30分 2幕約1時間 合計2時間30分
おもしろいです。

招待で2階席最前列から見ましたが、充分おもしろい。
市村さんは、(その内TVで公開されるから言っても良いと思いますので)よくバレエ教室で一緒にレッスンしています。
本番公演がある日でも、午前中はバレエのレッスンを途中までされて、近くの青山劇場に行ってらっしゃいます。

しかしそういう彼を見ているものの、ミュージカルで主演をされている彼を見ると、全くの別人。
迫力満点。
また、大竹しのぶさんは、映画やTVではよくみていて、更に噂では、女優という事に対しては、プロフェッショナルという事も
聞いてはいましたが、ミユージカルの彼女を見たら、びっくり。
彼女らしさも入れながら、歌があんなにうまいんだぁと思いました。

このミュージカル自体は、海外からの輸入盤を宮本亜門が日本版にしている事ですが、とてもよくできています。

ただ、こういう文化をみていると、日本人には、到底発想しえない構成だなぁって、改めて思ってしまいます。
こういう物が一部の日本人の人たちに、 受け入れられている事もわかりますが、日本文化の限界さえ感じてしまいます。

私自身としては、プロフェッショナルの人たちの舞台とは良いもんだ。
逆に自分もプロとしてできる事に最善を尽くすべきという思いもしました。

いちゃもん言いの私から一つだけ難点を付けるとすれば、
あのホールの音響効果からして、人の声・歌声が通りにくい。
私自身、そういう耳はとても高感度だと思っているが、話の筋は充分わかるが、歌声が共振して声の通りを悪くしていたと思う。
もちろん、人それぞれの周波数や、声質による所も大きいが、
一番通りの良かった声は、判事の一番弟子の方だったと思う。
それだけが残念。

お勧めミュージカルです。

追記
ミュージカルだけど、生オーケストラですよ。

-5月28日(土)-

がん:

昨日ニユートンという雑誌で、2回目となる原発関連の記事の特集があったので買ってみた。
ここで話すのは、その記事内容とは別で、がんの最前線治療の紹介があった。

がんの治療に対しては、外科的手術や放射線治療での部分的削除、がん細胞が身体中を回った時には、そういう治療もできないので、
そういう時には、抗がん剤の適用というのが一般的だったらしい。
抗がん剤は、基本的には、がん細胞が活発に活動するという特徴に対して、活発に活動する細胞に作用して細胞を殺すものだが、
こちらは副作用が大きい。活発に活動する細胞という特徴は、人間の身体の部位で幾つかあり、抗がん剤が、そういう部位おも
攻撃してしまうのだそうだ。
いわば毒をもって毒を制するわけだが、正常細胞も殺してしまう。

最近のものは、分子レベル(遺伝子レベル)での研究が発達して、ガン細胞にとって特徴のある遺伝子活動を抑制する事も部部的に開発されつつあるとの事。まだ全てのガンで有効ではないが、部部的にはかなり有効であるらしく、今後、もしかしたら、全てのガンで根本的な治療が可能となるような気もする。

但しこういう内容を知って、ある危惧を抱いた。
私はなぜ、こんな良い所にこういうわけのわからん意見を持ってしまうのか、自分でも不思議だが...

生物である限り永い時を経てその環境で生きる為の進化がある。
正体は不明だが、ガンがなぜ発生するかの解明も必要。
ガンそのものは正常細胞の遺伝子異常から突発的に出て来るものだとされているが、なぜ突発的変異があるのか。

神様は、全て人間の身体に対して進化の指針を刻んでいる。
それは、全ての人間を同一規格で作ったとした場合、今後来るであろう様々な障害に対して、ある一つの原因で一瞬にして死滅してしまうかも知れない。それが為に、人間の種類の中に様々な生体的な変異要素(バラツキと言っても良い)を組み込んでいる。
場合によっては、頭の良い人や、悪い例では、身体的条件が著しく他と違う者、そしてガンなどのバラツキも。
人間の生体的な変異要素を克服する事こそが、人間の進化なのだとしているのかも知れない。
恐らく ガンなどは、その発祥をおさえるといのうは、人間の生命がある限り、なくならないのかも知れない。

人間の免疫系がいつか進化して、ガンに打つ勝つのかも知れない。
そうした場合、そういう人間の悠久なる時による進化を差し置いて、治療方法として技術進化によって、ガンを押さえ込んでしまうとどうなるのか。それは、人間本来の進化の奇跡をもとり去っているのではないかとも思えてしまう。

人間本来の進化の奇跡は、人間技術の進化に代価されるわけである。
神の奇跡による進化を止めて、それで本当に、将来を生きて行けるのだろうかとも思ってしまう。

人間は改めて不思議だと思う。
こんな生命形態・進化形態、神様の奇跡にも頼らない形態で、進化して行く。
もしかしたら、神様も驚いているのかも知れない。

不老不死への追求が終わる事はないと思う。
そこには、生きる事が即ち死する事と 同一意味を含んでいるとしか私には思えないが、いつかは、そういう神様の定義さえも超えるのかも。
しかしそこには、時という問題がある。
地球という制限のある所にとどまっている限り、いつかは、人間の進化をまたずに、地球の生命が終わるのに、人間は耐えられないと思う。
時間はそれほど悠久の時があるわでもないのが、最大の神様の試練なんだろうと思うけどね。

一番簡単な例は、風邪ウィルス。
毎年違ったウィルスが出て来るが、本来の偶然の事象の中では、そういうウィルスに抗体のできる人間の確率は、とても低い。
本来であれば、もしかしたら1万年くらいかかってようやく、人間の全ての人たちにできる免疫力を
人間は技術を用いて、その神様による偶然の確率を無視して、人間の中身の免疫システムの変更を行っている。
そういう意味からして、人間は技術によって、人間自身を数万年単位で未来に進化させているとも思えるが...

これも問題かも知れない。
人間の免疫システムの学習能力にも限界があるのかも。
どんどん学習させれば、打ち止めになって、それで終わってしまうのかも。
偶然の事象の元に補償された生命時間を、人為的な進化によって加速的にその時計を回しているような気がしないでもない。

-5月29日(日)-

判断:

原発に関しては、東電の情報報道の体質に対して云々されていますが。
正確な問題点を指摘する報道はない。

報道自体に問題がある事を認識していないのが問題。
分析もせずに感情論主体の事しか報道していない。

正確に分析された情報がないのが一番否。
正確な事実が報道されてもねじ曲げられた感情論に重きをおいて国民をあらぬ方向に持って行くのも否。
こういう事実が一般化されている為、事実が事実として公表されない場合も多いというのが、
公然として言われていない。

事実が事実として報道されない一番の問題は、その事実を感情論でしか判断しない多くの国民に問題があるし、
その最たるものは民放。
結局我々の日本人の文化レベルがその程度なんだと思っています。

正確に事実を観て判断する事が個々に求められている。
これが全てです。

少なくとも一つの事実を取り出してそれを感情と結びつけて言うものではあり得ない。

色:

以前にも言ってきたことだが、私の仕事では、sRGB領域がきちんと印刷できれば充分。

赤枠:私のモニター 白枠:sRGB  緑:PX6550インクジェットプリンタ
ab色度図 での各色範囲(L=50)

モニタは完全にsRGB領域を含んでいる。
sRGBのデータならほぼ完全に色の再現ができる。

プリンタはモニターやsRGBに比較してもカバーレンジが全く違う。
この為、元のデータの色はどうやっても色の再現に関しては、モニター程度には正確性を期待できない。

一方最終的な本写真である銀塩の色範囲は、更に小さい。
一つの考え方として、最終媒体の色範囲に最初の現像時のデータの色範囲を合わせてしまうという手もある。
そうすれば、色範囲の一番小さいターゲットに合わせて画像データを作成して行けば、色の狂う率は少ない。
しかし、最終的に残す画像データとしては、一番可能性の高い=色範囲の広い データを残して行きたい。
それは、とりもなおさず、画像データは、もしかしたら10年後にも別な最終媒体の為に使うかも知れない。
そうした場合、最終媒体の可能性が高い事は充分考えられるし、そうなれば、昔のデータがよみがえる。

まあ、そういう事も考えて、画像データの保存に関しては、
当面作業で用いた画像データと元のRAWデータは昔から、バックアップしている。
もちろん、違う種類をバックアップしている意味は、別にもあるが。

プリンタとモニターの色合わせに関しては、標準的には各媒体のプロファイルを用いたCMSを利用するのが標準だ。
しかしながら、やはり標準というレベルであり、最適という事に関しては、差はある。
直接的な色範囲には関係ない領域ではあるが...

私の被写体は、いつも人物それも女性がほとんどであるので、女性の肌色に関しては、特に気になる。
色彩工学的にも、人の肌色に関しては、一般的に人間はシビアに反応する事が言われている。

よく化粧品の売り場には、そのメーカのモデル写真が飾っているが、実際のモデルの撮影時の肌色を観てみたいものだといつも思っている。
モデル写真は恐らく、化粧品のイメージを出すようにかなり写真データを修正していると推定している。

最適なプロファイルが必要となる箇所は、私としては女性の人肌以外は、あまり必要性を感じていない。
最適なプロファイルを作成するというのは、非常に難しいが、ここの所に関しては拘りをもって、
今後も改善を目指して行きたい。
来週もこの事に調査改善を課題にする。

-5月30日(月)-

安全:

自動車は安全でしょうか?
日本だけでも毎年5千人近くが自動車事故で亡くなっています。
安全でない物は排除せよという意見があれば、車は排除されなければならない。

傘は安全でしょうか?
バカな人間の手にかかれば、登り階段の前に、傘の先端を後ろにして傘を振りながら危険をまき散らしている人間は非常に多い。
安全でない物は排除せよという意見があれば、傘は排除されなければならない。

飛行機は安全でしょうか?
一度事故を起こせば多くの場合数百人単位で死者が出ています。
安全でない物は排除せよという意見があれば、飛行機は排除されなければならない。

原発は安全でしょうか?
過去40年で原発運用後にいったい何人が無くなったでしょうか?
安全でない物は排除せよという意見があれば、原発は安全だったのかも知れない。

人間は安全でしょうか?
安全な者もいれば危険な者もいる。
安全でない物は排除せよという意見があれば、人間は排除されなければならない。

こんなアホなたとえを持ち出していますが、本質は何でしょうか?
・一部が全てでないという事。
・事象が自分に及ばないのであれば、その事象をある程度冷静に判断できるという事。

原発システムの唯一の課題は、最終的に残った放射性物質を完全に廃棄できる事が技術的に確立されていない事、あるいは
理論的に解明されていない事だと考える。
その他の技術に関しては、死者以外のある程度の犠牲の元で、安全および技術を進展させて行くものだと考える。
それが万人に認められるか否かは、その文化に属する人間の成熟度合いにも多いによると思う。

感情という暴力をふるっている事も知らないような国民が多い中では、まともな議論が出来るとは到底思えない。
人の意見を聞くという事は、自分が主張する意見の反対意見を充分に聞いて理解する事。
反対意見を沢山聞く事で、更に自分の持っている意見に間違いがないかどうかを試験するのである。

原発の問題が取り出されてますが、現在の色々な報道では、原発否定意見しか聞こえてこない。
それでは、全く原発否定の信憑性がありません。

こういう物の考え方をするのが、マネージメントの基本です。

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