物の品性について
初めて社会に出ての仕事は、大会社でコンピュータプログラムの作成からでした。
入社して2ヶ月間ほどの研修が終了し配属された箇所で、2日目にはプログラムを作成していました。
上司に言われた一つの事は「プログラムコードの中にコメントを沢山書く事」。
私は、プログラムコードを読まずに、コメントだけを読んでプログラムコードが読めるように組んで、最終的にその上司を驚かせた。
それで実質半年で、25000行のプログラムを作成した。
最初は、先輩が処理の流れを簡単に説明していたが、直ぐにいわゆる機能設計から行うようになった。恐らく適正があったのだろうと思う。
プログラマーとして天才では全くなく、しかし、安定したコード設計を行い、プログラムの強度を高める事に集約していたように思う。
複雑な命令を1行で記述するのでなく、その1行の機能を読めるコードを数行にわたって記述するような形だった。
それから数年して、自分が物を作るよりいわゆる外注さんにものつくりを委ねる形になって、彼らの管理的な仕事がメインになった。
それでもそのソフトウェアの核になるような所は、自分でコード設計・製造をおこなってきた。
その当時(20歳半ば)は、社員でプログラムを作る周囲の誰もが、プログラムコードにバグが出る事を自分の恥としていた。
また、作成したプログラムが、一発で全て動くように、作成したコードを全身集中して自己レビューしていた。それが当然だった。
もちろんその当時、優秀なデバッガーがない時代だったので、プログラムを実行させながらデバッグを行うというスタイルはイレギュラーだった事もある。
「動作時の一つのミスを自分の恥とする」というのが、当時である。
品質管理などを行わなくても品質が良い。
もちろん個人で行えるレベルと集団で作る物の物作りのプロセスはある程度は異なるが、基本は個人の思いというか、真剣さが物全体の品質を左右するのは、当然の事である。
後年は、その本質的な所がないがしろにされて、品質管理という名目上の品質数値を上げる事が重要になってきた。
これらの事は、他の製造でも同じだと思う。
昔ながらの包丁職人と、カメラシステムを設計する現代のものつくりの対比。
包丁職人が包丁に込めるのは、品質を越えた品性なのである。
現代の技術の粋を入れたカメラも、光学カメラの頃は品性重視で物が出来ていたと思う。シャッター音一つや、光学式プリズムファインダーの見え方。
人の感性に訴えるような箇所が、磨かれてきた。
ところが、特にミラーレスの時代になってからは、機能性重視であり、品性を感じさせるような物作りがかなり薄れてきたと思う。
ファインダーに写る全てを品性のレベルまで高める事を性能や機能が追いついていない。それでも物作りをして、世の中に製品を出さなければ会社として生き残れない。
本当にそうでしょうか。
技術的な機能や性能なんて物は、飛躍しても、それらがもてはやされるのは、1年程度ではないかと思う。
しかし、ユーザインタフェースに代表される品性部分というのは、1年やそこいらでは、修正が効かないし、それは、その会社の物作りの本質をも表している場合が、多いと思う。
何でも、しっかりと一つ一つの機能を品性良く設計された物を望みたいものです。
また会社を辞める5年前からは、いわゆるSE(システムエンジニア)として色々な客にシステムを納める時のマネージメントをやつていた。
特にユーザの窓口になるSEは、場合によっては、システムの不具合等を社内の開発チームに伝えて、メーカとユーザの間の対応する場合も多かった。
私の一つの強みは、ソフトウェア開発チームに長くいた事もあるが、社内の開発チームへのクレームや要求は厳しかったと思う。
それは当然ですよね。一つのユーザからの質問事項に対して、単に開発チームからの回答を伝えるだけでなく、その回答が本質的なユーザの課題に対応できるかを見極める必要があった。
場合には、喧嘩してまで、メーカ開発チームにやせるような所はあったかと思う。
自分が納得できない物をユーザに勧めるわけには行かないですよね。
それがユーザ窓口作業者の当然の思いです。
しかし最近の各カメラメーカのプロ窓口の対応は、それとは遠く離れつつあるのではないかと感じざるを得ません。
まず クレームなり要望を言っても、開発チームとしての見解がきちっと帰ってきません。それでは良い物作りはできないと感じるこの頃です。
2020年11月28日